ここ1~2年、TVのニュースは、大きな事件がない限りトップはコロナ関連であったが、昨今は自民党総裁選のためかこれがトップになったりと目まぐるしい。国会で過半数を占める自民党、そのトップが首相になるだけに国民の関心も少なくはない。候補者は、相も変わらずの古参組、選挙になれば元気が出てくる面々だ。9月12日のユーボイスに掲載したコロナ禍についての政策はお愛想程度に置かれている。内容も今世間で問題になっていることを取り上げただけで、さすがと唸らせるものはない。
コロナの感染者数はこのところ大幅に減少しているが、おさまる気配はない。今はおそらく変異株が更に変異しつつある期間と見ることもできる。第五波まで来たのだから第六波は来ないという保障は何もない。今こそ、この時期に応急処置、医療体制固め、影響下諸産業の今後の対策等やるべきことはたくさんあるはず。長引くコロナ禍の真っ只中だけに、これらが候補者の政策、主張の半分以上をコロナが占めていてもいいのだが。
どうも候補者のコロナに対する認識はここに至っても低いと言わざるを得ない。このコロナは、感染者数が国内で168万人、死者が1万7千人、日々54人の死者(日経9月22日調べ)という数値でその後も更新を続けている。しかも入院したくても入院できず自宅療法の患者が1万2千人ほどいるという非常事態下にあってもだ。今はコロナを政策の中心に掲げて政治論争すべきだ。9月12日のユーボイスで指摘したが、候補者の立候補に際しての政策案をみるかぎりコロナ発生後今日まで十分な手立てをしてこなかったことの証であるようにみえる。国民全てを巻き込んだ大事件、しかもその渦中にありながらである。こうした候補者が他の政策ではきちっと実行するとは思えない。相変わらず選挙用の綺麗ごと、受けのいい政治課題を並べているにすぎないように感じられる。
候補者4氏は“ 自民党を変える ”ことを強調する。とかく党首選ともなると自民党に限らず、これは常套芸である。自分のすきなようにしたいというための口実のようだ。小手先のことだけでは何も変わらない。案の定各党とも今なお変わることなしに現在に至っているではないか。過去に大きく変わったときと言えば党が分裂するときであったぐらいだ。政党政治の限界なのかもしれない。戦前には旧憲法下、家長を中心に封建的な社会が残る風土の中では、党を中心にした政治活動は馴染める状況にあった。戦後の日本は、現憲法が公布され民主主義社会へと大きな方向転換を余儀なくされた。世界の主要国をはじめ多くの国々もその方向でやってきた。ところがこれらの国と日本との大きな違いは、“ 大統領制 ”を引いているかどうかにある。つまり、国民の意思がダイレクトにトップの選択に反映される仕組みがあるかどうかにあるのだ。ここが欠けていることが、日本の政治制度を中途半端なものにしてしまっている。
コロナ禍、政府と国民の間の距離は大きく開いた。コロナがまん延していく中でますますその距離は大きくなり、政府の施策は後手後手になりすぎた。党利党略、個利個略から首相であっても居場所がなくなり辞任せざるをえなくなった。このコロナ禍の真っ只中においてだ。原因はコロナより党を、自己自身を守ることに走ってしまうという忌々しき事態にある。世界を長きに渡って巻き込んでいるコロナ禍は、戦争と同様に有事だ。この有事の時にこのような事態になるのは恐ろしいことである。戦前は日本古来の社会制度のなかで有事に際して国民はまとまることができたが、民主化、洋風化された現代において戦争が勃発すれば、老若男女の価値観、思想等々のギャップから国民の結束は容易でなく、そこにトップ不在が追い打ちをかければ結果は歴然としている。近年、日本を取り巻く周辺国は安心できる状況にないだけに、非常に懸念される。
今回の自民党の総裁選挙では、多くの国民は、代議士を選んでいるとはいえ蚊帳の外である。特にコロナでは民意は十分に反映されていなかった。そうした中で国のトップを選ぶ選挙が、一つの党ので意向で決まることは大問題と言える。国民の不安もコロナで大きく増幅しており、従来以上にこの選挙の結末に国民は注視している。こうした不安定さを生む現在の政治制度は、抜本的に見直す時期にきているようだ。有事の際のトップのトンずらを防ぐために、国のトップは「党の改革」を越えた次元、つまり国民の直接選挙で選ぶという政治の大改革を真剣に考える必要がある。
国民の直接選挙で国のトップが決まるとなれば、トップ、つまり大統領にある程度の大きな権限が付与されるようになれば、今回のコロナ禍においてもそうであるが、党派を越えた即断で他国に遅れず迅速に手を打てたはずだ。党派のあり方も大きく変わってこよう。この直接選挙に基づく大統領制は、日本文化に根差した、日本文化を尊重した和の大統領であってもいいだろう。勿論、国会、国民によるリコール制度も兼ね備えたものだ。
これにより党中心で頭数の多さで仕事をしてきた国会議員は党に媚びることなく、党の縛りから解放されて政治のプロとしての本来の議員活動に専念せざるを得なくなるだろう。また、国民の目が議員一人ひとりに向いているだけに、安易な妥協、忖度は許されず、国民が納得する成果を得るべく突っ込んだ取り組みを議員に期待できそう。はたまた国民の側も国のトップを自分たちで直接選出でき、政策への反映が早くなるだけに政治への関心が相当に高まるだろう。これこそ正に日本の国民総活性化だ。